2025/09/30

モーヴァン丘陵地帯の旅 「マッパ・ムンディ」のヘレフォード大聖堂 3

 

昨年の夏に訪れたHereford Cathedral ヘレフォード大聖堂で、いよいよここの最大の「売り」である世界遺産「Mappa Mundi マッパ・ムンディ」を見学します。マッパはラテン語で「地図」(進撃や呪術やチェンソーマンを作っているあのアニメ制作会社は素っ裸と言う意味ではなかったんだな…)、ムンディは「世界」を意味し、つまりマッパ・ムンディとは非常に貴重な中世に作成された世界地図の事です。

マッパ・ムンディは、「Chained Library 鎖で繋がれた図書館」と共に、回廊の南西端に在る別館に展示されています。大聖堂自体は入場無料ですが、この部分のみは10ポンドの入場料金が必要です。ドケチなP太は有料と急に知ると物凄く文句を言う為、ここが有料で10ポンドだと言う事は予め何度も伝えて来ました。

ところが‼ 興味がないから頭にとんと入っていなかったらしく、「たかが地図を見るだけに10ポンドも払うなんて在り得ない」と突如怒り出して入場を拒否し、おまけに私の入場料は私自身に払わせました(ヨーク大聖堂の時よりタチが悪い)。 声を大にして言いますが、単なる地図じゃねえっつーの。この遠い大聖堂にわざわざやって来て、マッパ・ムンディを観るのをケチる馬鹿が居るのか⁈と、今思い出しても全く腹立たしく嘆かわしい限りです。

と言う訳で、ぼっちでマッパ・ムンディを見学しました。図書館の入り口までの回廊には、マッパ・ムンディに関する説明と関連する展示物が並んでいます。

例えばこれは、当時大変高価だった本を保管&運ぶ為の櫃。今となっては、「葬送のフリーレン」に登場するミミックにしか見えませんが。

単に皮がボコボコ波打っていると思いきや、マッパ・ムンディのレプリカを標高に従って3D化した物。 

実はマグナカルタの原本の一部も、ここには在ります。しかしマッパ・ムンディの方が✨スター✨過ぎて、他のマグナカルタを保持するソールズベリー大聖堂リンカーン大聖堂と違い、余り宣伝していません。

図書館の入り口。扉は謎に自動で開きます。

まず、マッパ・ムンディそのものが入館者を出迎えます。実は最初に見た時は、この前には熱心に観察する人々が群がっていた為、私はこの奥の図書館の方を先に見学しました。 

通路の反対側には、かつて地図の嵌め込まれていた樫の木製の額縁が。マッパ・ムンディは、元々は祭壇画の一つとして大聖堂内に展示されていました。 

中世の世界地図は他にも幾つか現存し、その中でもこれは「ヘレフォード図」と呼ばれ、マッパ・ムンディの中では最大の物と言われています。158cm×133cmで、1300年頃の制作。ヴェラム(羊か子牛の皮)に、黒インクをメインに赤、金、青、緑で描かれています。

当然測量をして作図した訳ではなく、そもそも地動説すら存在しなかった時代で、地理的な正確さはなく役立たずなものの、中世の世界観・宗教観・思想観を知るには極めて貴重な資料で、歴史的な価値は測り知れません。 

キリスト教の聖地エルサレムを中心に、何故かヨーロッパとアフリカが逆転して表示され(地図の上が北を差すと言う決まりは未だ無かったのかも)、更にエデンの園やバベルの塔等の聖書の内容が記されています。

もう兎に角、当時の世界は化け物がいっぱいでした()。特にアフリカ大陸に多いようで、良く知らない土地は恐怖でしかなかったのでしょうね。

この地図を見た率直な私の感想は、やはり中世は暗黒の時代と呼ばれるだけあり、閉鎖的で狂信的で底知れぬ不気味さに満ちていたと言う事です。やっぱ怖いのは、化け物ではなく人間です。 

そしてこの奥にある、「Chained Library 鎖で繋がれた図書館」。建物自体は意外と新しく1990年に完成し、その開館式典は故女王様のテープカットで行われたとか。

本が余りにも貴重で高価だった時代、勝手に持ち出せないよう鎖で繋がれているのです。

本棚自体にも、厳重に鍵が掛かっています。

一冊がデカい上、ヴェラムで出来ているだろうから非常に重く、そう簡単には持ち出せないとは思います。そもそも、読める価値の分かる人は極僅かだった事でしょう。識字率が低い上、ラテン語で書かれているはずだから。

否応無しにハリー・ポッターの世界を思い出し、もしかして本自体が勝手に動き出すので鎖で繋いだのでは??とか想像してしまう程です。

期待を裏切らず興味深く、やはり私にはここまで来てマッパ・ムンディを観ないと言う選択は絶対に在り得ませんでした。自分の夫の歴史への興味の無さとケチ臭さが、強烈に忘れ難く今だ情けなくて仕方ありません()




2025/09/29

モーヴァン丘陵地帯の旅 「マッパ・ムンディ」のヘレフォード大聖堂 2

 

昨年の夏の夫婦旅行の、 Hereford Cathedral ヘレフォード大聖堂見学の記事の続きです。

この大聖堂自体の建物で最も印象的だったのが、The Stanbury Chapelと呼ばれる15世紀の司教の墓所兼礼拝堂。

六畳程度の狭い空間ですが、細かいゴシック時代の石彫でびっしり覆われ、まるで部屋全体が芸術品のよう。

Crypt 地下礼拝堂にも行きました。ここも大聖堂の地下としては、然程広い空間ではありません

ここで一番目立っていた古代ローマ風の祭壇は、第一次世界大戦中に19歳で戦死した将校の父親が、その死を悼んで建てた慰霊碑。

また地下には、半端なく古いエフィジーが安置されていたり。

中世の石棺も並んでいます。棺は、例え空でも気持ちの良いものではありません。

石棺の蓋は、細かく線彫り彫刻されていたりします。

地階の翼廊や周歩道周辺にも、立派なエフィジーの乗った墓所が集まっています。

しかし、やはり誰一人聞いた事のある人物ではありませんでした。 

埋葬者の名前ははっきり残っているらしいので、これらも一人ずつ調べると結構奥深いのでしょうが、今回は其処までの熱意は無し。

The Audley Chapelと言う礼拝堂の、繊細さが漂うステンド・グラス。 

現代のステンド・グラスには普段は余り惹かれませんが、いっそこれ程モダンだと返って清々しい。

こちらの、新しいステンド・グラスも素敵。

17世紀の僧侶で詩人のThomas Traherneに因んだ物だそうで、2007年にTom Dennyに寄って制作されたそうです。恐らく、1970年代辺りの中途半端に古い宗教芸術が、余り好みに合わないのです。

続いて、回廊の中庭部分に出ます。

白い紫陽花が目立っていました。その合間には、白い秋明菊も咲いています。夏の暑さが穏やかな為、イギリスでは紫陽花は日本より遅く咲き始め、秋明菊は早く長く咲き続けます。

回廊の東側は、カフェになっています。この右側の一段高くなった場所には、かつて八角形のチャプター・ハウスが立っていたそうです。

この脇は、典型的な英国式庭園の宿根草花壇になっていました。




2025/09/28

モーヴァン丘陵地帯の旅 「マッパ・ムンディ」のヘレフォード大聖堂 1

 

昨年の夏のMalvern Hills モーヴァン丘陵地帯旅行の最終日は、ヘレフォードシャーの州都で、大聖堂都市Worcester ウースターとはモーヴァン丘陵を挟んでほぼ反対側の西に在る、もう一つの大聖堂都市Hereford ヘレフォードを訪ねる計画です。目当ては、勿論ここの大聖堂。Hereford Cathedral ヘレフォード大聖堂も、どちらかと言えばイギリスの大聖堂としてはマイナーですが、ここには「Mappa Mundi マッパ・ムンディ」と言う観光の目玉があります。向かう途中の道案内にも、全て「この先大聖堂」ではなく「こちらマッパ・ムンディ」と記してありました。

チェスター大聖堂同様に、イングランド西部で多く産出されるらしい赤砂岩で出来ています。イギリスの大聖堂の多くは、一番高い塔が西塔ではなく中央搭なので、本来の正面である西側ファサードは割とこじんまりとして見えます。この西塔は元はもっと大きな物でしたが、18世紀末に崩れたそうです。

実は到着した朝は生憎の曇り空で建物の外観が映えず、やっと晴れて来た午後の去り際に、急いで大聖堂に戻って再び撮影しました。

これが、身廊と翼廊(袖廊)の交差する部分の上に立つ鐘楼である中央搭。流石に大聖堂らしい迫力の大きさです。 

搭の上部を拡大して見ると、ブツブツと細かい彫刻で覆われています。

内部に入ってみましょう。まず身廊です。この場所には8世紀以前から前身の宗教施設が存在し、大聖堂の建設はウィリアム一世征服後の1079年に始まりました。 

その後増改築を重ねゴシック様式が加えられますが、アーチや柱にはノルマン様式の特徴を色濃く残しているように見えました。

アーチには、ノルマン様式らしいギザギザが刻まれています。

大抵は入り口に近くに設置されているフォント=洗礼盤。幾つかの教会では、フォントが最も古く貴重だったりします。このフォントも原始的な彫刻で相当古そうですが、特に何も記されていませんでした。

この大聖堂は、正式名を「Cathedral of Saint Mary the Virgin and Saint Ethelbert the King in Hereford」と言い、聖母マリアと聖エセルベルトの二人の聖人に捧げられています。 

聖エセルベルトは、元はエセルベルト二世と呼ばれたアングロ・サクソン時代の8世紀のイースト・アングリアの若き国王で、敵対するマーシア国王オッファから「こっち来たらうちの娘を嫁にやるだ」と誘き出されて処刑され、大聖堂の立つ前のこの地に埋葬されたと言われています。

その後エセルベルト王の遺体を掘り起こしたら、良くある話で何年も経っているのに全く腐敗していなかったとかで(きちんと調べてません)、巡礼者が押し寄せるようになり、聖人に叙されたようです。

その斬首の様子を描いたプレート(多分ヴィクトリア時代の物)が床に嵌め込まれていますが、こんな風に剣を振り回しては、押さえ付けている従者の命も危ないんじゃないかと。

身廊と翼廊が交わるクロッシング部分の天井。つまり、中央塔の真下です。

内陣部分の聖歌隊席とその奥の主祭壇。手前の天井から吊るされた金属の装飾が、キリストの荊冠を表しているのか、正直刺々しくて見るのも痛々しい。

その点この翼廊の丸い照明&装飾は、和と安らぎに溢れています。やはり宗教は、入信するとこんなに良いでっせとアピールする、心地良い物でなくてはと勝手に思います。