しかし13~16 世紀の間は、エフィジーと違い出っ張らずに礼拝の邪魔をしないとの理由で、線刻彫りの板碑が流行したそうです。上↑の写真のように棺の蓋に嵌め込まれていたり、床に直接嵌め込まれている場合も多くあります。こう言った板碑は、真鍮製はmonumental brass、石製はinscribed stone slabまたは ledger stoneと呼ばれ、石板に人物像だけが真鍮製で嵌め込まれているのも良く見掛けます。
16世紀に入ると、故人一家の財力にも寄りますが、再びエフィジーが有力者の墓のステイタスとなりました。エフィジーにも二種類あり、大抵は生前の職位や身分を示す衣服を纏って祈りのポーズをするGisant ジザンですが、たまにTransiトランシと呼ばれる腐敗して骸骨や蛆虫などに覆われた死者の姿を表すタイプも見掛け、両方を乗せる二段式も存在するそうです。何故そんな悪趣味な墓を?と異教徒にはとんと理解出来ませんが、「メメントモリ」と言うキリスト教の思想感からのようです。
墓所には一つ一つ説明書きが付いていますが、ほとんどは聞いた事がない人物です。しかし立派な墓所が残されているが故、何世紀も後世の異国人にさえ知られる事になるとも言えます。また、歴史的には興味を引かなくとも、装飾や素材的には興味深い場合もあります。
これは17世紀の司教の墓で、生前自らデザインしたそうです。徳のある人物なら、自分の葬儀や墓所は極力簡素にとか遺言しそうな物ですが、当時の聖職者にはそう言う謙虚な発想はなかったのでしょうか??
16世紀の裕福な羊毛生地職人夫婦の墓。説明書きに寄ると、妻の方が10歳以上年上だったのが分かります。こんな変な角度から見ると、ドレスの裾の重なり具合が、リアルなのかも知れないけど(普段見る機会は無いので)奇妙。夫の像の方の足は、犬か何か動物の上に乗せられています。
ウースター大聖堂の最大の見所の一つなのが、内陣の聖歌隊席と高祭壇の間に在る、13世紀の英国王ジョン王の墓。棺の上のエフィジーは、英国内の国王の墓像としては最古と言われています(フランスのルーアン大聖堂に眠る兄のリチャード一世の墓が更に古いからなのだろう)。英国王族の墓所は、大抵はウェストミンスター寺院、近年はウィンザー城内に設けられる事が多いのですが、時々地方でも見掛けます。
ジョン王は、ここより遥か離れたニューアーク・オン・トレントで病没しましたが、遺体は遺言に寄りこの大聖堂に安置されました。兎角評判の悪い王様で、英国王室では二度とジョンとは名付けない程馬鹿だったと噂され、ロビン・フッドの物語で更にイメージが悪く定着しました。しかし彼が余りにも情けない国王だった為、今でも世界の多くの国の憲法の基礎となっている偉大なマグナカルタが生まれたのは事実のようです。
マグナカルタ自体が残るソールズベリーやリンカーンの大聖堂が有名なのに比べ、ジョン王本人の眠るこのウースターは、大聖堂としてはイマイチ地味な存在なのが皮肉です。
もう一つ歴史的に興味深いのが、15世紀のアーサー王子の墓と専用礼拝堂。彼はチューダー朝の祖ヘンリー七世の長男で、ヘンリー八世の兄でした。つまりPrince of Wales 皇太子でしたが、ウースターの北方のラドロウ城で15歳で早世した為に、次男のヘンリーが次の国王に即位した訳です。
ヘンリー八世の一番目の妻キャサリン・オブ・アラゴンは、元々はこのアーサーの妃でしたが、莫大な持参金と共にアラゴンに返すのをヘンリー七世が渋った為、近親婚ではないとの教皇から特許を得て次男に当てがったそうです。この事が、後に英国がバチカンと断絶し国教会を生むのに大きく働いたようです。
最後に、大聖堂を外側から眺めました。
我々が入ったのは南側の回廊からでしたが、現在の主要な入り口は北に在ります。
こちらが、本来教会建築の正面である西側の、セヴァ―ン川に面したファサード。大聖堂の西ファサード前は大きく広場になっている事が多いのですが、ここのは壇上のテラスになっていて、尖塔が見える程は広くはなく、意外な程こじんまりした大聖堂に見えます。
大聖堂全体を眺めるのにはセヴァーン川沿い、特に対岸に行くのがベストなようです。
夏なのに薄ら寒い程の生憎な空模様で、晴れた日ならどんなに映えたであろうと想像しますが、曇天でも十分美しく見えて楽しめたウースター大聖堂です。一回分の記事に纏めたいと思いましたが、何より自分自身の覚え書きの為に重要で、結局三回にも渡ってしまい…、これもそれも充実して学ぶべき事は少なくなかったからだと思います。
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