2023/12/31

ヘソ天国

 

今年最後のブログ記事も、我が家の愛猫タラちゃんで締め括りたいと思います。今年前半はマミー()一時帰国で不在、後半は屋根の修理工事の騒音に悩まされ、タラちゃんにとっても穏やかな一年ではなかったと思います。そして我々夫婦は、タラちゃんのおしっこ問題にも振り回されました。

まず私が帰国中の45月頃、膀胱炎防止のサプリメント、尿コントロール専用のキャットフードを食べさせているのにも関わらず、タラちゃんは再び膀胱炎のような症状を見せ、血尿も出るし家のあちこちで粗相するようになりました。P太はすぐに獣医に連れて行き、尿検査もして膀胱炎に感染していると診断されました。

庭で余所の猫に追っ掛け回されたり、P太の家族が我が家に訪問・滞在したのが、人見知りなタラちゃんにとって大きなストレスだったようです。粗相した場所を清掃する事、タラちゃんに抗生剤を飲ませる事(偽ちゅ~るに混ぜてさえ拒否された)に、P太はかなり苦労しました。

タラちゃんの運動能力は、今までの我が家の猫の中で確実に一番優れていますが、性格が温和過ぎて喧嘩はからっきしの弱っちさです。自分より明らかに小さな猫にさえ、追っ掛け回されて家に逃げ帰る始末です。なので、庭に出るのは私と一緒でないと安心出来ないのです。

秋になり屋根の修理工事が始まって、あの凄まじい騒音が猫にとってストレスじゃないはずがありません。この頃から、タラちゃんは再び玄関で粗相するようになりました。すぐさま獣医に連れて行き尿検査も受けましたが、今回は膀胱炎ではありませんでした。

臭いを徹底的に取り去る為、玄関マットは処分しカーペットを洗い下駄箱も洗いましたが、それでも未だ玄関で粗相をしました。

結局玄関にももう一つトイレを設置し、今の所は一応問題は解決しています。それまでの猫トイレは二階の浴室に在る為、屋根に一層近い騒音の大きなその場所では、タラちゃんは怖くて用を足せなかったのだと思います。

また屋根の修理中に、イギリス最大の花火の季節(10月末から11月初旬)が来たのも、彼女にとっては苦痛だったのかも知れません。イギリス人は兎に角うるさい花火が好きで、大晦日のカウントダウン時も爆音の花火を各家庭で打ち上げます。人間より遥かに聴覚の優れた犬猫にとって、この音が恐怖じゃない訳がなく、獣医では精神安定の為の薬を提供しますし、また実際に心痛で亡くなる犬も毎年居るそうです。

大気汚染や火災の問題もあり、今は花火を禁止しているヨーロッパの国もあるそうですが、これ程動物愛護の進んだイギリスで、何故今だ禁止されないのかが不思議です。ここ数年は、イギリスでも主要スーパーマーケットでは花火の販売を中止するようになりましたが、怪しい販売店が一層儲かるだけのような。

タラちゃんの場合、余程近所で花火を打ち上げない限り、普段はその騒音を気にする様子はありませんが、昨年おしっこ問題が発生したのも丁度その季節だったので、やはりストレスに感じているだと確信しました。

更に今考えると、分離恐怖症とも言える超絶甘えっ子のタラちゃんにとって、私が帰国で不在だったのは、そりゃ多大なストレスだったであろう…と済まなく思います。P太に対しては「何だ、おまえか」的な塩対応だった今までの我が家の猫達(ポコちゃん以外)と違い、タラちゃんはダディの事も大好きで、P太もちゃんと世話をしますが、は日中は仕事で忙しく、夜はVRに夢中で、どう考えても私程は構ってくれません。

そんなタラちゃんを置いて、私は来年も再び数カ月間一時帰国しなければなりません。この非情な母を、許しておくれ…。癌を患っている父は未だ普通に家で生活していますが、医者が宣告した余命1年半が来るのは来春です。どちらにせよ、90歳に近い両親に会える機会は、海外に住む私にとって非常に限られています。

最近の検診で体重は7㎏近くと測定され、流石に獣医さんから運動量の少ない冬場はおやつを減らすように注意されました。それ程大きくも太っても見えませんが、抱き上げると毎回腰にズシーンと響く程の重圧です。筋肉がみっちみちで、比重が高い体躯なのだと思います。

相変わらず、ヘソ天ポーズは毎日が特売大放出です。タラちゃんの広いモフモフのお腹に顔を埋めて猫吸いすると、これぞパラダイス~と思ってしまう夢心地です。彼女がいつまでもヘソ天出来る、環境&健康状態であって欲しい。幸せなタラちゃんの姿は、やはり私達夫婦の幸福です。―――それでは皆様、良いお年をお迎え下さい。

 

 

 

2023/12/30

屋根の修理の年

 

今年は一年の三分の一を自宅を離れて一時帰国し、その多くを年老いた両親の世話に翻弄された。しかしイギリスに戻ってからは、始終屋根の修理に振り回されるような年だった。私が未だ日本に滞在していた五月、大雨の夜に自宅の屋根が雨漏りを起こし、夫は夜中にベッドが濡れている事に気付いて目を覚ました。物置になっている屋根裏へ登ってみると、確かに屋根にぽっかり穴が開いて空が見えた。その時は、応急処置として穴の下へプラ製の大きな衣装ケース(私の衣装を放り出し。怒)を置いた。

予め言って置かなければならない前知識として、イギリスの修理や建設工事関係の仕事ぶりは、概ね先進国のプロの仕事とは思えない程大雑把で、日本人の想像を絶する程レベルが低く、その割には金額はとんでもなく高い。この国にも絶対安全基準はあるはずだが、ヘルメットを着用して工事する人はほとんど見た事がないし、例えアスベスト塗れの解体現場でも、夏場は半裸で仕事する人も珍しくない。なので、自分自身かパートナーがDIYが得意じゃない限り、金銭的には勿論、イギリスでの暮らしは物凄~く損と苦労をする事になる。

幸運な事に我が夫はDIYが得意で、電機工事もコンピューターの修理も出来る限り何でもこなす。しかし、屋根の修理は流石に専門会社に依頼するしかない。夫は翌朝ネットで近隣の屋根修理会社を検索し、信頼出来る評判の良い幾つかに見積もり依頼を出した。しかし、返答して来たのは小さな一社のみだった。その会社も、ネットに不具合があって良く繋がらないだの、社長がハネムーンで数週間留守にするだので、実際に見積もりを取りに社長が現場(我が家)を確認に訪れたのは、依頼から一ヵ月近く経った後だった。

見積もりは出たが、実際に修理が始まる日程はまるで立たなかった。更に予め付け加えなければならないイギリスの現状として、この国はここ十年近く移民急増の為に、凄まじい住宅建築ラッシュだと言う事。どんな僻地にも新興住宅地が造成され、イギリスの原風景的な田園景色が激変し、長閑な小さな村だったのが数年で四、五倍以上の大きさに変貌するのも珍しくはない。その為、建設工事従事者は常に不足している。EU離脱でEUからの移民は激減したものの、逆にEU外からの移民の数は鰻登りらしい。最早アングロ・サクソン人(古来からのイギリス人)は絶対にしたがらない、辛い汚い安い仕事をする労働者が大量に必要だからだ。

私が長く日本に滞在して離れて暮らしていたせいで、我々夫婦は旅行に殊更飢えていた。しかし、いつ屋根修理が始まるか全く予測が全く付かなかった為、夏休み旅行はどんどん先延ばしされ、出掛けられるのは日帰り旅行のみだった。やっと実際に修理の予定が立ったのは、既に9月末。その後すぐに足場は建てられたものの、肝心の大工は中々やって来なかった。

その頃になると、当然日照時間は短くなり、また天気の悪い日も一層増えた。雨が降ると、屋根の工事は出来ない。それは仕方ないとして、問題はこちらから問い合わせない限り、修理会社からは絶対に連絡を寄越さない事だ。更に、晴れていても他の仕事が入ったからと大工が来ない事もあるし、明日は絶対に来ると言っておいて来ない事もあり、女性事務員が伝えるのを忘れた、または予定を見落としていたと言うお粗末ぶりもあった。伝統的にイギリスの大工は連絡が苦手と言う話だが、苦手と言うレベルじゃなく、連絡が必須と言う概念そのものがないのだろう。このインターネットの時代に、前世紀どころか産業革命以前の仕事ぶりだ。

最初は23人の大工がやって来て23日で修理が終了する物だと、すっかり夫婦揃って思い込んでいた。しかし実際にやって来た大工は、ボブと言う中年男性一人だった(ボブ・ザ・ビルダー…)。ボブの話では、他の大工は全く使い物にならず、返って自分一人の方が仕事が捗ると言う。ポーランドやルーマニア等のEUからの出稼ぎ大工は仕事が出来たが、離脱で揃って故国に帰ってしまい、イギリス出身の大工、特に若者はまるで役立たずな為、致命的に大工が不足しているとの話だった。確かにボブは、うちへ来る日は朝八時から黄昏時まで懸命に働いた。

実際に修理してみると、屋根瓦やその下の分厚いフェルト製のシートが破損しているだけでなく、屋根の梁の木材そのものが経年で腐っていて、見積もりとは別料金で総取り換えしなければならなかった。我が家は築70年位でイギリスとしては新しい家だが、今迄屋根の取り換えをした事はなく、瓦の幾つか以外は素材自体が寿命らしい。ここでイギリスの一般的な屋根の構造を説明しておくと、梁の上にフェルト・シートを被せ、屋根瓦を乗せるだけである。流石に、現在フェルトは耐水性シートに換えられているそうだ。

しかしやはりたった一人の大工では、一日に進められる仕事の量はたかが知れている。その内に日没はどんどん早くなるし(11月では4時頃)、天気は連日雨ばかりになり、ボブは他の家の仕事も受け持っているので一週間に一度も来なくなり、ついでに彼はコロナに罹った為に一ヵ月以上も仕事に復帰出来なかった。

その頃には屋根の主要な修理は終わっていたが、使用していない煙突の付け根から未だ雨漏りしていた。確かに其処は屋根で一番雨漏りし易い部分で、修理前にも一度だけ、バケツをひっくり返したような土砂降りの際に雨漏りした事がある。しかし、今では滝のような豪雨は気候変動で全く珍しくなくなり、煙突は年々劣化して行く一方だ。一度ボブが煙突の接続部分の鉛板を貼り替え、更に別料金は掛かったが、それでも未だ雨漏りは解決出来なかった。

そして12月に入ってもボブがコロナで来れない期間が続いた為、修理会社の社長は別な外部委託の大工を寄越した。彼が煙突を確認した所、接続部分ではなく煙突そのもののレンガの目地に亀裂が入っていた。其処で、急遽煙突自体を撤去する事になった。

それが終了し、遂に足場が取り去らされたのは、結局Xmasイヴの二日前! 実は未だ妻面の破風の修理が残っているのだが、それにはボブ自身の持つ小型足場の方が返って作業に都合が良いらしい。すっかり足場に囲まれた家で年を越さなければならないと思っていたので、それのない当たり前の状況の清々しさを、夫婦で素直に喜び合った。秋中、足場の為に庭仕事がままならなかったのもストレスだった。結局最初の見積もりの倍近くも金が掛かり、夏休み旅行もすっかり見逃したが、今迄の屋根の状態では、雨の多いイギリスの今冬は到底越せなかった。

今年は義妹の家でも風呂が壊れ、浴室を全面改装しなければならなかった。日本であれば、全ての工事がパックにされたユニットバスがあり、一日で取り付け完了する事もあるが、イギリスにはそんな便利な物は存在せず、全て義妹が別々に大工(builder)、木造大工(carpenter)、配管工(plumper)、電気技師(electrician)を手配しなければならなかった。義妹の夫は、こう言う時もまるで役に立たないらしい。

しかし例に寄って大工が来ると言って来なかったりで、結局浴室改装工事に一ヵ月掛かった。その間風呂無しでは当然暮らせない為、義妹一家は義母の家に居候していた。安く上げる為に知り合いに依頼したものだから、普通は工事料金に込みでプロが処分するはずの古い浴室の瓦礫が、未だ義妹の家の前庭に山積みで、自分で処分するには200ポンド(三万六千円以上)程掛かり、返って面倒な上に高く付いてしまったらしい。

因みに我々がこの家を購入して越して来た直後にも、屋根に小さな穴が開いているのを発見し、修理代の一部は家の売り主に払わせた。その際、昔からこの町に住む夫の同僚にお勧めの修理会社を紹介して貰ったが、充分酷い仕事ぶりで、二度とその会社に依頼する気にはならなかった。そんな修理会社でもお勧めなのだから、やはり多くのイギリス人にとっては「許容範囲内のレベル」なのだろう。

イギリスの修理・工事は、評判&想像通りにイライラさせられて非常に厄介だった。やはり出来るだけ依頼しないのに限るし、少なくとも屋根の修理は生涯もう二度としなくて済む事を祈る! こんないい加減な仕事ぶりでも倒産せずにお金を貰えるのだから、ある意味日本より遥かに生産性が高いとも言える。しかしこんなにあちこちの業務がズサンでは、絶対に非効率的な仕事や無駄な出費も多いはずで、多分真っ当には儲けていないだろうとも思う。





 

2023/12/29

老人力の脅威

 

予め、物凄く長文注意。今回は「ですます」調も、益々文が長くなるのでやめた。

今年は一年の三分の一を自宅を離れて日本で過ごすと言う、私にとっては異例の年だった。想像通りに大変で、新年早々これを書く気が引けるのは当然だし、今思い出してもウンザリするが、単に自分自身の記録として書き留めておかねばと思う。コロナ規制がやっと緩和され、数年ぶりの嬉しい帰国のはずだったが、帰国準備中から私の胃は緊張でキリキリ傷む程だった。滞在するのは母国、福島県の実家、または慣れ親しんだ東京の姉夫婦の家とは言え、4ヵ月も自宅を空け夫と離れて暮らすのだから不安で堪らず、留守の間の家や庭の整理・準備も忙しかった。しかし何故、今年そんなに長期間も帰国しなければならなかったと言えば、昨年父の肺ガンが発見され、高齢で手術や放射線治療等を受けられない事もあり、余命一年半と宣告されていたからだ。念の為、今でも父は特に自覚症状もなく、月に一度程治療の為に通院しているのみで、普段は自宅で普通に生活している。しかし存命中、少なくとも意識のはっきりしている内に家で会えるのは、これが最後の機会になるだろうと思われた。どちらにせよ、両親は既に80歳代後半で、身体のあちこちが相当不自由になっており、歩くのさえままならない。姉や弟は離れて住んでいて仕事も忙しく、例えほんの短期間であろうと、私が英国から戻って生活を手伝うしかないと考えた。

しかし、私の両親と言うのが、元々物凄~くクセの強い人達で、それが歳追う毎に更にパワーアップして、我が親ながら果たして一緒の生活に耐えられるかどうか?と言うのが不安の最大の要因であった。父は子供のように甘やかされて我儘で癇癪持ちだし、母は重度の発達障害で意思の疎通も会話も成り立たない上(今は認知症も多少入っている)、耳が遠いのに補聴器を付けるのを拒否する。実家に帰る前に東京で友達に会い、この事を話したら、「やめときな! 二日が限界だよ」とキッパリ言われ、益々心が折れた。そりゃすぐに親に駆け付けられる場所に住んでいればさあ、そう出来るだろうけど、こちとら地球の裏側から高い金掛けて会いに来ているんだよ…。

二月末の父の米寿の誕生日に合わせ、東京から福島県の実家に移動したが、この直後から早速大打撃を喰らった。父母がこの直前にノロ・ウィルスに感染していて、誕生会に参加した孫二人(甥と姪)90歳代の伯母さえ全員移された。父は自分の誕生会を開きたいばかりに、この事実を隠し黙っていたのだ。高齢の親にコロナを移しては一大事と、帰国前も帰国後も緊張する程注意を払って来たと言うのに、ノロの感染力はコロナの比ではないとは言え、結局私の両親自身が感染対策を何も理解していなかった。孫達や伯母は滝のような()嘔吐と下痢に見舞われた後すぐに完治したが、何故か私のみは普段よりお通じが悪い程で、その為に一ヵ月近く腹痛と食欲不振に悩まされた。

元々両親は整理整頓や掃除の能力が欠如し、広い実家は常に散らかっており、年老いてからは尚更酷く、部屋の幾つかは物置と化し足を踏み入れられない程だった。特に台所の乱雑ぶりと不潔さは深刻で、床も障害物だらけで老人にとっては危険だし、今まで食中毒の起こらないのが常々不思議だった。この家を少しでも片付けるのが、今回の私の帰国の使命でもあった。そんな家庭で育った私も綺麗好きとは程遠いのだが、実際ノロに罹った後は、もうこんな汚い家には滞在出来ないと、体調不良の中フラ付きながらも片付けに明け暮れた。両親は相変わらず言動が常識外れで、始終ハラハラさせられた。特に母は、長年使わず古く汚れて傷んで壊れている物でも、自分の所有物を処分するのを許さない為、度々口論となり清掃作業の大きな障害となった。心身共に辟易し、毎晩のようにLineで姉に報告も含めて愚痴を聞いて貰った。その度に姉は「一度東京に戻って来ても良いんだよ?」と言ってくれたが、もし一度でも離れたら二度と実家に戻る気にはなれないと分かっていたので、必死に踏ん張り続けた。周囲からは、「どうせまたすぐに元のぶっ散らかりに戻るから、片付けても意味ないよ」と言われた。しかし、普段から激務で疲れているのにも関わらず、帰省の度に実家の余りの汚さに掃除に励まざるを得ない、返って休暇中に一層疲労する姉を、今回は楽にする為と自分に言い聞かせ、姉夫婦の帰省するGWを目指して片付け捲った。

また、私の滞在中は、母には調理を一切させなかった。母は料理の腕前がSPY×FAMILYのヨルさん並みで、元々帰省して実家に近付く度に胃が重く感じる私であったが、ノロ感染後はトラウマ的に母の料理は一切食べられなくなった。母の料理は、単に不味いと言うだけでなく、正しい保存方法や賞味期限の概念が全くない為、衛生的にも非常に危険であった。盛り付けも食材の組み合わせのセンスも悪く、闘病中の父の栄養管理も含めて任せられなかった。また作る量もめちゃくちゃで、どんなに注意しても毎回とんでもなく大量に作る為、一度でも調理させる訳には行かなかった。毎回鍋の幾つかや冷蔵庫の中は、食べ切れなくて忘れ去られ腐った食べ物が詰まっているカオスな状態だ。また高齢で調理中に寝てしまう事も多くなり、実際に危険で料理はさせられなかった。母はこれが非常に不満で、何度止めても自分が食べたい賞味期限当日の食品を沢山買い込んで来た。半日でも家を空けると、母が大量に不味い料理を作り、また無計画に食品を買い込む為、実家に滞在中は日帰り旅行にさえ出るのも憚られた。どうしても出掛けなくてはならない際は、予め昼食用に電子レンジで温めるだけ等の食材を用意してから行ったが、母はレンチンもお湯を注ぐだけのインスタントの味噌汁さえも失敗した。

健康と気晴らしの為に買い物がてらに一日一度は外出する事、自室として利用している部屋で動画を見る事、お風呂に入る事(北国なので5月に入っても朝夕は寒い)だけか、実家での生活の救いだった。両親と一緒にTVを見たり団らんするのは、好みも会話も合わずストレスが多過ぎて無理だった。田舎と言えど両親の家は旧町内に在り、全ての公共サービス機関や比較的大きなスーパーマーケットが、私の足なら徒歩5分圏内と言う便利な立地に在る。しかしそれさえも、既に両親には歩いて行くのが不可能だ。田舎の人あるあるで、今迄車の生活に頼り過ぎていたせいでもあるが、その車の免許も数年前に返上した。父は、最早200mも歩けない。母はスーパーまでは歩けるが、毎回大量に買い込む為に自力で帰る事が出来ない。バスの本数は少ないものの停留所は自宅の目の前で便利だが、そのバスさえ母は逃す事が多く、度々町の中で行方不明の徘徊老人となった。

もう一つの私の実家滞在中の役目として、両親に介護認定を受けさせると言う使命があった。認定審査の福祉士の自宅訪問時は、平日で家族が同伴しなければならない為、私の実家滞在中にしか機会がなかった。80歳代後半になってさえ、「ヘルパーさんを頼めるから受けといた方が良い」と我々子供達がほのめかしても、今迄両親は必要ないと突っぱねていた。傍目からは非常に危なっかしく生きていても、母は料理も掃除も洗濯も十分出来ていると信じている(不味くて大量に食材を無駄にしても、洗濯は二、三週に一度でも、掃除は年に一回でも)し、父は昭和のジジイとしてさえ一際自分では何も出来ない男で、家事の大変さを全く分かっていない。それで、自宅訪問時に本人達に必要ないとすっぽかされては困るから、私としては最大限に気を使って「まあ今は必要ないかもだけどさ、今後の為に受けて置いて損はないはずだよ」位に、出来るだけ優しく軽く勧めたつもりだった。

ところが、その直後に母の容態が急変した。母は高齢にしては食欲が旺盛な方で、その夜もデザートまで美味しそうに平らげた。夕食後に介護認定の話を持ち出したが、その時は二人共「ふーん」と言う感じで大人しく聞いていた。しかし私が自室に戻った後、母は「他人(ヘルパーさん)に家の事を任せるなんて嫌だ」と父にボヤき、汗ばむような暑い夜だったのに、やたら寒いと言い出した。風邪薬を飲ませたが、翌朝には高熱を出して起き上がる事すら出来なかった。意識が朦朧として受け答えさえ出来ず、最早薬も水すら飲めない為、救急車を呼ぶしかなかった。

その間父はと言えば、ノロの時もそうだったが何一つ役に立たず、全く余計な事として、呑気に同じ町内に住む伯母(父の姉)に電話で報告なんかしている始末だ。母はコロナに罹った可能性があるから、高齢の伯母にこちらに来られて感染されては泣き面に蜂なので、父から受話器を奪って「コロナかも知れないから絶対こっちに来ないで!」と伯母に告げた。救急車を待っている間、母の保険証、着替えやタオル、スリッパ等を急いでカバンに詰めた。そして救急車を誘導する為に外へ出たが、救急車より先に「来るな」と言った伯母が心配して車で来てしまった。しかも、救急車が駐車する予定の場所に車を止めた。「今すぐこのまま車で引き返して帰って!」と叫んでも、伯母は車を降りて家の中に入ろうとするので、最後には鬼の形相で「お母さんはコロナなので感染するから帰って!」と怒鳴って押し返し、やーっと伯母は理解して引き上げた。日本舞踊を続けているせいか、伯母は90代でも今だ足腰はしっかりしているが、やはり耳が遠いしリアクションや物事の理解は遅い。

母を乗せた救急車に同乗し、自家用車を運転出来ないと行き辛い、母がいつも通院している病院ではなく、結構ゴリ押しして実家から徒歩圏内の病院に運んで貰った。幸運にも、その地元病院に空きがあり受け入れて貰えた。病名はコロナではなく、間質性肺炎と蜂窩織炎(脚の炎症)だと診断された。前日まで咳込んでいた事もなく、その兆候は全く見られなかったので驚いたが、今にして思えば、介護認定の話を持ち出されたのが精神的に相当ショックで、その際に母の免疫が急激に落ちたのだろう。どちらにせよ、肺炎は老人の死因のトップの一つだ。医師からも、最悪の場合は命を落とすし、例え回復しても入院中に筋力が一気に衰える為、多分自力で生活出来る元の暮らしには戻れないだろうと言われた。そして、やはり介護認定を今だ受けていないのを驚かれた。

未だコロナ規制が5類に移行する前で、当時その病院は入院患者への面会を全面禁止していた。病室に運ばれるベッド上の姿を見た時も、母は意識朦朧として全く喋れず、これが生きた母を見る最後かも…と覚悟した。面会は出来なかったが、看護師さんからの指示で必要な物をせっせと病院に運んだ。姉や弟や義兄からは、「少なくとも私が滞在していた時で良かった」「良く救急車をパニックにならずに呼べたね」と言われたが、実を言うと、父母の年齢では急に具合が悪くなったり突然絶命するのは在り得るので、予め救急車を呼ぶ事を頭の中でシミュレーションしてから日本へ来た。因みに、イギリスでは二度消防車を呼んだ事がある…。

母の入院中は父と二人で暮らした訳だが、正直その時の実家の生活は凄~く穏やかでラクだった。只、果たして母が退院出来るかさえ未だ見込みが付かず、父は食べるものさえ自分では用意出来ない為、少なくとも介護認定が下りてヘルパーさんを依頼出来るまでは、私の実家滞在を最大限に延長するしかないと考えていた。

単身赴任中だった弟が春から実家近くに転任し戻って来ていたので、週末は二人で怒涛の如く実家の片付けをした。鬼の居ぬ間に洗濯とばかりに、母の絶対に不要で傷んだ物を大量に処分した。不謹慎なのは重々承知だが、きっと母は助からないと覚悟し、今の実家の状態では弔問客さえ迎えられない現実問題に焦ったからだ。その中から、母の十年間分の病院の処方薬が山のように発掘された。賞味期限が切れた高価な健康食品も、大量に出て来た。母は様々な身体の不調で長年通院しているが、発達障害が原因なのか、きちんと薬を服用する習慣が出来ない。怒った主治医から、認知症の検査を強制的に受けさせられた程だ。健康食品も、購入した時点で健康になったと勘違いしているらしい。母の無駄にした大量の処方薬を、そのまま捨てては医療に対する冒涜だし、近所の人に見付かると恥ずかしいからと、父はわざわざシートを切り離して中身を出してから一週間位掛けて処分した。

その内、姉夫婦がGWで東京から帰省した。休暇中も姉は実家でしばらく仕事をしていたが、今回は少なくとも家を片付ける必要がないと喜んでいた。幸運にも母は回復に向かっていて、直に退院の為のリハビリテーションも始めるとの事だったが、姉夫婦は県外者の為に病院に入る事さえ許されなかった(※私なんて県外どころか海外在住者だが、その時既に二ヵ月近く実家に滞在していた為に特別に許可された)。今回の帰省中に母に会えないのは残念だけど、元気な父とは会えたので帰省した意味はある、と姉は納得していた。

そんな矢先、母の入院先の病院から、未だリハビリも始まったばかりだと言うのに、「お母さんは今日明日にでも退院出来ますから早めに迎えに来て下さい」との連絡が入り、正に寝耳に水だった。我々は全員、母の予想よりずっと早い退院を喜んだと言うよりは、青ざめてパニクった。母はそれまでも勝手に病室を抜け出そうとしたり、オンライン面会でも「ここの看護師は厳し過ぎる」と文句を言っていたので(看護師さんに丸聞こえ…)、絶対に病院から愛想付かされて追い出されるのだと思ったからだ。そこで姉、弟と三人で相談し、再三病院に「母は本当に日常生活に戻れる状態なのか」を問いただし、翌日引き取りに行くしかなかった。恐らく母は、長女も帰省しているはずなのに全然会えないなんて許せない!と怒り、老人とは思えない脅威の回復力を発揮したのだろう。医師の危惧に反して筋力が衰える事もなく、勝手に自分で当日の回復祝いのレストランの予約までしていた(流石にキャンセルした)。入院時は意識があやふやだった為、自分が死に掛けて救急車で運ばれた事さえ自覚していなかった。

後で義兄から「俺は血族じゃないから、きょうだいが相談している時は口出さなかったけど」と勿体ぶられ、「ああ言う時、病院の言う事(退院)を聞き入れるべきじゃない」と何故か私だけが責められた。実際に母は問題なく回復して退院したのだし、今更言われてもしょうがないから止めてくれと頼んだが、義兄は言い続けるもんだから、遂には姉が怒ってくれた。不安とストレスで憔悴し切っている今、何故無意味な追い打ちを更に掛けられなきゃいけないんだ…。「おにいちゃん本人もジジイになって融通が利かなくなっちゃったんだよ。悪気はないから許しておくれ」と、姉から謝られた。その後しばらくして、姉が両親にヘルパーの必要性を極力穏やかに説明した。今まで沢山の税金を払って来たのだから、こんな有難いプロのサービスを受けても何ら恥じる事はないと説いたが、母は他人に頼るのは情けないと言って泣き、再び免疫力が急降下して病気になるのではと私は気を揉んだ。

姉夫婦が東京に戻ってからも、私は十日程実家に居続けたが、これがまた非常に長く感じられるキツイ期間だった。母は体調不良で朝遅くまで起きて来ない事がある為、父でも朝御飯の支度が出来るよう、パンを注文して自分で用意出来るように教え込んだ。母が起きて来ないと、今迄は自分でお茶さえ入れない怠惰な父だったが、これは何とかなった。私が去った後は再び母が家事をしなくては行けない為、母に料理のリハビリをさせる必要があったが、これは私の胃が全く受け付けなかった。しかし母は、自分の料理を私にとって「懐かしい母の味」と頑なに信じ(実際にはトラウマの味だが)、何としてでも私に食べさせようとした為、胃がキリキリと傷んで益々食欲を失なった。本当に実家を出る直前まで、母の料理を食べない限り私は東京には帰させて貰えない、例え食べても胃痛で帰れないのではと不安に苦しんだ。そんな胃の状態なのに、母は私が去る前夜に寿司を注文しようとするもんだから、無理矢理受話器を奪ってお断りした。現金な物で、実家を発つや否や胃痛は嘘のように消え食欲は復活した。

三か月近くの滞在で、確かに実家は見違えるように綺麗になり、その他にも不具合を色々と解決・処理したので、父を始め家族や親族一同から称賛・感謝された。しかし本当は、父からは庭仕事、伯母からは自分の家の仕事も手伝って欲しかったと言われた。母だけは、自分の持ち物を大量に処分され、料理を阻止され自分の家事能力を全面否定された訳だから、明らかに不服で大して有難くも思っていないようだった。それどころか、私が夫を置いて自分一人だけ長期間帰国した事を何度も母から非難され、遂には英国に早く帰れとまで言われ、夫婦で相談し苦渋の決断をしてまで親を心配してやって来た気持ちを踏みにじられた。母のこう言う自分では思いやりと信じている無神経さは生涯絶対に直る見込みはないのだし、このままでは母とはウンザリな思い出しか残らないから、私が我慢せねばと何度自分に言い聞かせても、こちらだって発達障害なので忍耐の限界はたかが知れていて無理だった。

労働がきつかった訳ではなく、あくまで両親の元からの性格や行動がきつかった。認知症とか寝たきりの介護に比べれば遥かにラクなはずなのに、精神崩壊の危機を感じた。両親にしてみれば、自分達は問題なく普通に暮らしていると信じているのに、始終私から小言や注意を言われるのは嬉しくなかったはずだ。今回帰国して親の面倒を見て、周囲からは「やれる事はやり遂げた達成感があるのでは」とも言われるが、実際に未だ親は生きていて不便な暮しを続けているのだから、思い残す事はないなどとは決して思えない。

友達も、一斉に年老いた親や義両親の世話・介護に関わる年代になった。その中の一人からは「誰もが自分の親(の世話)が一番大変だと思っている」と言われたが、今は確かにそうかも知れないと思う。親は身内の前では遠慮なく素を出すし、こちらも愛情や恩義や情けがある為に絶対見捨てられない。そして、自分の親だから、どんどん衰えて益々手が掛かるようになって行く様子が悲しくない訳がない。夫の母も相当クセと言うか拘りの強い性格で、手術後に世話でしばらく滞在した時は、ストレスで胃から血を吐くような思いをした。その義母も、足腰手が不自由なだけでなく、脳が新しい情報を受け入れられずに度々パニックを起こす為、夫+義妹の週一の訪問だけでは補助が追い付かない事も多くなった。そんな義母を今残して、夫は数週間でさえ私と一緒に日本に行く事は出来ない。

現代社会の変化に付いて行けず、身体機能的には非常に弱く、正直いつ突然死んでも可笑しくない老人達なのに、その破壊力たるや何と強力なのだろう。彼等を見ていると、歳を取るのは本当に怖いと痛感するが、誰でもいつかは必ず老いるのだし、そう言う私もすぐに老人になる。ただ、親にはいつまでも元気で長生きして欲しいとは願うものの、体の不具合を沢山抱えてまで、自分はむやみに長生きはしたくないもんだとつくづく思う。