二月に夫婦で訪れたノーフォーク旅行の二日目で、雰囲気の良い村Cley next the Seaを去った後は、眺めの良い海岸線の道路を西へ進みました。海沿いの道路と言っても、やはり道路と海の間に、陸地とも浜辺とも言い難い湿地帯が大きく広がっていて、本当の海岸は余り見えない状態でした。途中何度か駐車場に車を止めて歩いて海辺に出ようと試みましたが、何処にも無料駐車場がなく諦めました。ちょっとでも仕払って観光を一層楽しもうとは思わん程ケチなのかい?と言われそうですが、イギリスのこう言う場所の場合、ちょっとじゃないんですよ。高い一日分の駐車料金しか設定されていなかったり、料金支払い機のお釣りが出なかったり、カードで払うにしてもまずアプリをダウンロードしろ(しかも非常に分かり辛い)だの、全く鼻持ちならない殿様商売です。その後の移動中、工事か何かで通行止めで、海沿いの道路から離れなければなりませんでした。しかしこの迂回路で、思いがけず面白そうな場所を見掛け、急遽車を止めて見学する事にしました。
それは、修道院の遺跡でした。Burnham Norton バーナム・ノートンと言う村の南の、牧草地の中の小学校の向かい側にありました。名前は「St. Mary Friary」とも「The Carmelite Friary」と記されており、前者は聖マリア托鉢修道院、後者はカルメル会托鉢修道院と言う意味です。
入場無料なのは道理で、遺跡と言っても現存しているのはこれだけ。門楼の一部と、教会の正面のみです。この他小さな家屋と井戸が残っているそうですが、現在は私有地内の為に見学出来ません。
これら門楼と教会は、19世紀まで村人の礼拝堂や農家の一部として使用されていたらしいので、近世まではもう少し建物らしさが残っていたのだと想像します。
門楼内部には階段が残っていない為、外側に鉄製螺旋階段が備え付けてありました。登った先の扉には鍵が掛って中には入れませんでしたが、この二階が礼拝堂として使用されていたようです。
修道院の敷地自体は広かったらしく、この緩やかな傾斜になった緑地の先の生垣まで続いていたようです。生垣の側には当時の石塀の一部も残っているそうですが、其処までは見に行きませんでした。敷地の向こうに、奇妙な建物が見えます。恐らく、風車の土台部分だと思います。
修道院を意味する英単語は、私が知る限りmonastery=男子修道院、nunnery=女子修道院、convent=特に女子用の修道院、cloister=特に回廊のある修道院、abbey=大修道院やpriory=小修道院等があります。
イギリスではabbeyやprioryが一般的で、現在の地名の一部にも良く使われています。その中でもfriaryは比較的馴染みのない単語で、P太でさえググっていた事があります。
イングランドの修道院のほとんどは、16世紀に国王ヘンリー八世に寄って強制解散させられました。修道院の巨大な勢力を恐れたのと、修道院の財力狙いの為です。丁度それと然程変わらない時代の日本では、織田信長が力を持ち過ぎた比叡山を焼き討ちにしたのが奇遇です。現在イギリスで修道院と名の付く施設の多くは、修道院の礼拝堂のみが教区教会として残っているのにabbeyやprioryを名乗り続けていたり、近世に新たに設けられた修道院です。
カルメル会は、元々は13世紀初頭にイスラエル北部のカルメル山に居を構える隠修士(隠者)の集団でしたが、戦争で退去を余儀なくされ、1242年にその一部がイングランドに辿り着き托鉢僧となりました。この修道院は1253年に創設され、15世紀初頭までには15人の修道士が暮らしていたと推測されています。社会との接触を極力拒絶した隠修士と異なり、托鉢修道士達は貧しき者に教育を施し、また巡礼者達には修道院を宿泊施設として提供し迎え入れ、一般住民に貢献していました。
1630年代にヘンリー八世に寄る修道院解散法が始まると、この修道院も終焉を迎えました。強制閉鎖に抵抗する僧侶達は、書くのも憚れる程惨たらしい方法で処刑されましたが、この修道院からも二人が処刑されたそうです。
この3,4㎞先の南には、Creake Abbey と言う修道院の遺跡がもう一つ在り、同じく入場無料で更にファームショップ等の商業施設が併設された、ちょっとした観光施設になっているらしいので、寄れば良かったかなと思います。本当に昔のイングランドは、国王が危惧する程修道院だらけだったのだと実感します。
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