今年三月から六月までの私の一時帰国中、四月に緊急入院した父への治療は、まず肺の水を抜く事と、心・腎機能を改善して足の浮腫みと痛みを取る事、そして数週間掛けて日常生活に戻れるようにリハビリをする、との病院側から説明を受けた。が、私が見る限り、父が今後退院出来るかどうか処か、余りにも身体が弱っていて、この夏を超えるのさえ無理に思えた。夫の数年前に他界した父親は、腎不全の自覚症状が現れて1,2週間で亡くなった。唯一私の父の気力のみはしっかりしていて、治って元の生活に戻る気満々だった。
現在は入院患者に飲み物や食べ物の持ち込みは禁止されているのに(健康・回復を考えれば当然だが)も関わらず、父は極甘の乳酸菌飲料を欲しがって、隠し持って来いとメールを送って来たり、入院後も色々と駄々を捏ねて手を焼かせた。また父は勝手に点滴を止めたり、つじつまの合わない事を口走るようになり、とうとうボケが一気に始まったかと焦ったが、認知症はそう急速には進行しないもので、どうやら「せん妄」と言う、環境の変化した老人に起こり易い意識障害だったらしい。
私はその後、入院生活に必要な着替え・洗濯物等を運ぶ為、あくせくとバスを乗り継いで病院に通わなければならなかった。自身の通院もあり、流石にほぼ毎日ではきつかったが、母と伯母(父の姉)が父の世話を焼きたがった為、交代で面会に行く事が出来た。車では30分程度の距離なのに、公共の乗り物だと、例え部分的に病院直営の送迎バスを利用しても、乗り換え時間のロス等もあり片道2時間近く掛かる。それなのに、昨年よりはコロナの規制が少なくなったとは言え、面会時間は午後のたった15分以内と極限られて設定されている。これが大変なので、昨年の母が救急車で運ばれた際は、実家から徒歩圏内に入院させた。実家は地方にしては公共の交通の便は比較的悪くない方だが、やはり自分で車が運転出来ない限り、田舎暮らしは非常に不便だ。
昨年の母の入院中には、しばらく実家で父と二人だけで暮らした。その間に父は癇癪を起こす事もなく、うちの両親は一緒じゃないとこんなに楽なんかいと改めて実感した。その時の穏やかな暮らしは、今となっては父との最後の良い想い出になった。そして今年の父の入院中は、しばらく母と二人で暮らした訳だが、母は元々言動が支離滅裂な上、耳も遠く認知能力も衰えているので、残念ながらそれ程心休まる生活ではなかった。昨年は母が(不味い)料理を作りたがり私に食べさせたがって、胃が痛む程辛かったので、今年は昼食だけは任せることにした。しかし昼になっても母は起床しなかったり、インスタント味噌汁に水を灌いだり、ラップを掛けたままの食品をオーブントースターで加熱したりと、すぐに無理だと確信した。私が帰省する前まで、すっかり食の細くなった父に、母は栄養を付けさせたいと父の好みを無視した料理ばかり出していて、益々食欲を失せさせていたようだ。一度母の出した味噌汁が古過ぎると父は怒り、食卓にぶちまけた(どっちもどっち…)事もあるらしい。
母の方にこそ、父から怒鳴られる事もこき使われる事もない間は、少しは気楽に暮して欲しいと願ったが、あんなに身勝手で横暴な父でも、母にとっては一緒に居ないと心休まらないらしかった。その内GWで姉が帰省し、出来る限り母を励ます為、母の好きな(但し父は嫌いな)料理をここぞとばかりに作り、外食にも連れて行ったりしたが、やはり心底喜んではいなかった。母は流石に父がもう長くない事を悟ったようで、既に度々号泣していた。歳を取ると、身体機能や認知能力が衰えるだけでなく、感情の制御も難しくなる。
結局父の退院の見込みも立たないまま、私は自分の体調不安もあり、事後を弟に託して東京の姉の家に戻った。その後、父はほぼ強制的に退院させられた。決して回復したから退院した訳ではなく、その真逆で治る見込みがないからだ。何処の病院でも、患者の流入を増やし治療件数を増やす点数を稼ぐ為に、一人の患者を長くは入院させておきたくないものらしい。弟は、実家に介護用ベッドのレンタルを手配したり、来る時に備えて貯金や生活費用を確認したり、その後の介護施設を探したりと大変だった。
更に危惧した通り、自宅に戻った父の我儘と癇癪に振り回され、自分も母も精神的に限界だと弟は嘆いていた。しかし、父の世話が大変過ぎるので施設に入って欲しいと頼むと、父はいつもの喋り好きをきっぱり止め、だんまりを決め込んだ。そんな父を説得する為に、姉と私は再度福島に出向いたりもした。しかし五月末に、父の体調は救急車で搬送される程に悪化し、再入院する事になった。
六月に入り医師から、父の心臓は今も動いているのが不思議な程弱っており、余命は一か月だと弟は聞かされた。その事で運転中も頭がいっぱいになり、また多大な疲労も重なって、弟は衝突事故を起こした。被害者や破損物が無かったのはせめてもだが、自身の肋骨を折り、愛車は大破して再起不能となった。その事は、私は父が亡くなる直前に初めて知った。
私のイギリスに戻る日程が一週間内と迫った時、姉が有休を取ったので、最後に一緒に何処かへ出掛けようと言う事になっていた。しかしその日は豪雨と予報されていた為、家で一日中姉妹仲良くドル活をする事にした。そんな日の早朝、父の入院する病院から電話が掛かって来たのを義兄が受け取り、いよいよ父が危篤状態なので、家族は病室に集まるようにと言われた。それで姉と私は、起床と共に取り急ぎ荷物を纏めて福島に向かった。予報通りの大雨で交通機関は乱れ、まず新幹線に乗る為の東京駅に着くまで随分時間が掛かった。
それでも、父の息が未だある間に、午後一位には病院に到着する事が出来た。病室には、母、伯母、弟、義妹(弟の妻)、甥、姪と全員集まっていた。父は前日から意識がなく、酸素吸入器を付けられていたが、麻酔のお陰で苦しんではいなかった。心臓がほとんど機能していなくて血圧も酷く低いから、少しでも血行を良くする為に、私達は交代で父の手足を摩り続けた。
結局夕方の6時頃、父は静かに安らかに息を引き取った。苦しむ事もなく、家族全員に囲まれて正に絵に描いたような大団円だった訳だから、私達は思わず拍手で父を見送った。特に海外に住む私が父の死に目に会えたのは、ほぼ奇跡に近いと思う。病院では父の遺体を綺麗に整えてくれ、変な話だが返って死後の方が健康的に見えた。その日は福島県でも天気はずっと荒れ模様だったが、父が亡くなった時にふと外を見ると、雨はすっかり上がって嘘のような美しい夕焼け空になっていた。
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