2024/08/15

父の旅立ち 3(※長文注意)

 

今年の一時帰国中に父が亡くなってから、未だ2か月と経っていないが、既に半年以上過ぎたような、もっとずっと前の出来事のように感じている。今回の日本に滞在中には、自分の健康不良もあって様々な体験が重なり、良く憶えていない事も多く、頭が未だ混乱しているだけかも知れない。父が余命一か月と宣告をされてから、死亡は結局たった一週間後の事だったが、理想的な最期を迎え、辛い状況が下手に長引くよりは、本人にとっても家族にとっても返って良かったと思っている。

薄情に聞こえるだろうが、私は父の死をそれ程悲しんではいない。父の一生は、本当に勿体ない程恵まれて幸せだったと確信しているからだ。50歳代の時に脳卒中、60歳代の時に心筋梗塞を患い、二度も心肺停止状態になったのに関わらず、結局90歳近くまで生きたのだから、まず大往生と言える。コロナも乗り切り、最先端の癌治療に大金も掛け、出来る限りの事はやり尽くした。本人は未だやりたい事があるから生きたいと願っていたが、その割に自分自身の健康には十分気を配らず、肉体は既にボロボロだったのだから仕方ない。

父は長年教職に就いていたが、いつまでも生徒と直に接したいからと、教頭・校長試験も受けずに平教師のままで終わった。定年後は、趣味の歴史研究や庭仕事、旅行を満喫して悠々自適に暮らした。大病を患ってからは、学生時代から続けていたソフト・テニスは出来なくなったが、その後はグランド・ゴルフ(ゲートボールのような老人競技らしい) に参加し、70歳代まではその地元大会で賞を取る位が父の喜びだった。心筋梗塞以来、医師からは残り10年程度しか生きられないだろうと言われていたが、結局それから20年以上生きた。

その寿命のボーナスのような父の80歳代は、栄誉に溢れていた。まず長年の地域の文化財の保護活動が認められ、町と県から表彰される事になった。家族は皆、「お父さん、良かったね」と素直に喜んだ。しかし、その翌々年辺りに国から文化功労章を貰う事になった時は、コロナ渦中なのに京都の表彰式に出席すると言って聞かなかった為、家族全員で青ざめて阻止した。そしてその翌年は、天皇陛下から叙勲と言うのを頂く事になった。未だコロナの感染状況は厳しかったから、皇居に出向くのは流石に自ら断念した。

放蕩だった訳ではないものの、好きな事をし続けて認められ、家族に対しては我儘放題を貫いたのだから、父の生涯は正に幸運だったと思う。幼少より三人の姉に甘やかされて育ち、結婚後は母に甘やかされ、家族が自分に何かをしてくれるのを当たり前のように考えている人だった。ものぐさで面倒な事は出来るだけ人任せだし、上手く行かないと一方的に人のせいにしてすぐに切れる。伯母(父の姉)の話では、父はロクに勉強もしないくせに、国立大の入試と公務員試験に合格したらしい。大学時代はテニスで全国大会にも出場した腕前だったそうだが、それとて並外れて練習していたとは思えない。戦争や敗戦後の貧しい時代の日本や、早くに両親を亡くした経験をしたとは言え、同世代の日本人に比べたら、結構甘っちょろい人生だったのかも知れない。

しかし、自分が好き勝手に生きた分、自分の子供三人にも本人達の望む人生を歩ませてくれたし、母と違って私と姉に子供を産まなかった事を責めたり嘆いたりする事もなかった。私が外国人と結婚すると決めた時も、焦って県内人との結婚を勧める母を諫め、「おめでとう」と祝福してくれた。まるで大きな赤ん坊のように、自分では何も出来ない昭和の典型的なオヤジだったが、日本の古い価値観に固執していた訳ではなく、決して保守的ではなかった。亭主関白な俺様だった訳でもなく、単に子供じみて忍耐が無かった。基本的には、明るく気さくな性格。私の夫が結婚の挨拶をしに初めて両親を訪れた際、日本のドラマやアニメに登場する頑固親父を想像してガチガチに緊張していたが(しかもガイジンだし)、父が初対面から余りにフレンドリーだったので拍子抜けしていた。父は新しい道具類は大好きで、最新の電化製品にはすぐ飛び付いた。頭は確かに良かったようで、社会状況も意外と把握していたし、田舎の年寄りにしては真っ当な国際感覚を持っていた。

父の死後の数日間は、家族全員が告別式等の準備で、高校生の甥と姪も含めてバタバタと働いた。何せ父は癌と診断されてからも、未だやりたい事があるからと生きる気満々で、終活なんて物には聞く耳を持たなかった。そんな訳で、予想通り死後の処理・整理は困難を極めている。海外に住む私は業務的な手伝いがほぼ出来ない為、裏方の掃除やおさんどんに勤しむしかなかった。ただ母のみが、ほとんど一日中マッサージ椅子に座って寝て過ごし(耳が聞こえないから他が走り回っていても一向に気にならない)、このまま息を引き取るんじゃないかと心配させた。少しでも悲しみから逃れる為、思考を停止させていたのかも知れない。


私がイギリスに戻る前日に行われた父の告別式は、日本でもどんどん葬式が簡素化されていると聞く今時分、田舎だって中々ないだろうと思える程格式ばって仰々しく思えた。町長から弔辞を頂き、県知事や県会議員、国会議員数名からは献花や弔電が届いていた。私にしてみれば、未だ小学生だった私達きょうだい三人を置き去りにして、麻雀やパチンコに遊びに出掛けるような父だった思い出が強烈過ぎて、そんな立派な人間だった印象はまるでない。父の棺には、好物だったアンパン、ジャムパン、クリームパンと饅頭を入れた。そして葬式が大げさだった分、四十九日や新盆も大掛かりで、弟も姉も疲労が積み重なっているようだ。時間の感覚が可笑しくなっているなどと呑気な事を言い、何も出来なくて済まなく思う。

最後まで自分は治ると信じて、生きるのを諦めなかった父なので、死期の心構えをしているようには見えなかった。もし父が自分の人生の終わりが近いのを悟ってたならば、少しは家族に思いやりを持って接して欲しいと思っていたのだが、結局周囲を振り回している自覚のないままあの世へ行った。せめて、長年父に第一に尽くし、それなのに最晩年は父から役立たずと文句を言われていた母に対しては、最後位はきちんと感謝を伝えて欲しかった。父から感謝されようがされまいが、母の父に対する愛は、今後も変わらないのかも知れないけれど。私とて、父に十分親孝行したとは全く言えないが、あれ程身勝手では一生掛かっても要求に応え切れるはずはない。

父が亡くなっても然程悲しくはないものの、兎に角お喋りで主張の強いジジイだったから、これから徐々に寂しくなって行くとは思う。実家辺りの天気予報を見て、今日は福島でも酷暑だから父の体調が不安とつい考えるにつけ、もうその心配の必要なないのだとハタと気付く。三人きょうだいの中で私が一番、短気な性格も園芸や切手収集、歴史が好きなのも父に似ていた。

今後心配なのは、ひたすら残された母の事だ。昨年の突然の入院からは奇跡的に復帰はしたものの、高齢で身体能力が衰えているのには変わらない。父にせよ母にせよ片方が先に亡くなれば、恐らくもう一方も長くないだろう、と前々から家族で話していた程、両親は最後までべったり一緒の夫婦だった。父は物理的に母に依存し捲っていて、母は父の心配をし世話を焼く自分に依存していたような所がある。そんな父を失った母が、猛烈な寂しさに打ちひしがれているのは疑いようもない。いつかは必ず別れが来るのに、これ程高齢になっても仲が良い夫婦と言うのは、ある意味考え物だとも、前から良く家族で話していた。

母はパソコンどころかスマホさえ全く使えない為、もう海外からビデオ・チャットをする事もメールも出来ない。それ所か、既に電話もドアベルも聞こえない程聴覚が無い上、調理の途中で寝てしまったりと、あらゆる行動が危険に溢れている。更に父の死後は確実に認知症が進むだろうから、母が自宅で生活するのはすぐに無理になるだろうと言うのが、我々きょうだい三人の見解だ。勿論、人生の最期に住み慣れた家から老人を離す事に、心が痛まない訳がない。だからと言って、弟一家が一緒に住めば解決するような状況ではなく、もっと長く生きなくてはならない残りの家族の人生を犠牲にするような事があってはならないと思う。

母の健康状態に大きな問題が怒らない限り、次に帰省するのは出来れば来年の秋以降にしたいと考えている。二年連続で10か月と開けずに帰国するのには、流石につくづく懲りた。経済的には勿論、身体的にも精神的にも無理。あの世の父が、寂しいからとすぐに母を呼ぶことなく、母には後何年かは元気で過ごして欲しいと切に願う。

 

最後まで読んで下さり、本当に有難うございました!

 

 

 


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