予め、物凄く長文注意。今回は「ですます」調も、益々文が長くなるのでやめた。
今年は一年の三分の一を自宅を離れて日本で過ごすと言う、私にとっては異例の年だった。想像通りに大変で、新年早々これを書く気が引けるのは当然だし、今思い出してもウンザリするが、単に自分自身の記録として書き留めておかねばと思う。コロナ規制がやっと緩和され、数年ぶりの嬉しい帰国のはずだったが、帰国準備中から私の胃は緊張でキリキリ傷む程だった。滞在するのは母国、福島県の実家、または慣れ親しんだ東京の姉夫婦の家とは言え、4ヵ月も自宅を空け夫と離れて暮らすのだから不安で堪らず、留守の間の家や庭の整理・準備も忙しかった。しかし何故、今年そんなに長期間も帰国しなければならなかったと言えば、昨年父の肺ガンが発見され、高齢で手術や放射線治療等を受けられない事もあり、余命一年半と宣告されていたからだ。念の為、今でも父は特に自覚症状もなく、月に一度程治療の為に通院しているのみで、普段は自宅で普通に生活している。しかし存命中、少なくとも意識のはっきりしている内に家で会えるのは、これが最後の機会になるだろうと思われた。どちらにせよ、両親は既に80歳代後半で、身体のあちこちが相当不自由になっており、歩くのさえままならない。姉や弟は離れて住んでいて仕事も忙しく、例えほんの短期間であろうと、私が英国から戻って生活を手伝うしかないと考えた。
しかし、私の両親と言うのが、元々物凄~くクセの強い人達で、それが歳追う毎に更にパワーアップして、我が親ながら果たして一緒の生活に耐えられるかどうか?と言うのが不安の最大の要因であった。父は子供のように甘やかされて我儘で癇癪持ちだし、母は重度の発達障害で意思の疎通も会話も成り立たない上(今は認知症も多少入っている)、耳が遠いのに補聴器を付けるのを拒否する。実家に帰る前に東京で友達に会い、この事を話したら、「やめときな! 二日が限界だよ」とキッパリ言われ、益々心が折れた。そりゃすぐに親に駆け付けられる場所に住んでいればさあ、そう出来るだろうけど、こちとら地球の裏側から高い金掛けて会いに来ているんだよ…。
二月末の父の米寿の誕生日に合わせ、東京から福島県の実家に移動したが、この直後から早速大打撃を喰らった。父母がこの直前にノロ・ウィルスに感染していて、誕生会に参加した孫二人(甥と姪)も90歳代の伯母さえ全員移された。父は自分の誕生会を開きたいばかりに、この事実を隠し黙っていたのだ。高齢の親にコロナを移しては一大事と、帰国前も帰国後も緊張する程注意を払って来たと言うのに、ノロの感染力はコロナの比ではないとは言え、結局私の両親自身が感染対策を何も理解していなかった。孫達や伯母は滝のような(涙)嘔吐と下痢に見舞われた後すぐに完治したが、何故か私のみは普段よりお通じが悪い程で、その為に一ヵ月近く腹痛と食欲不振に悩まされた。
元々両親は整理整頓や掃除の能力が欠如し、広い実家は常に散らかっており、年老いてからは尚更酷く、部屋の幾つかは物置と化し足を踏み入れられない程だった。特に台所の乱雑ぶりと不潔さは深刻で、床も障害物だらけで老人にとっては危険だし、今まで食中毒の起こらないのが常々不思議だった。この家を少しでも片付けるのが、今回の私の帰国の使命でもあった。そんな家庭で育った私も綺麗好きとは程遠いのだが、実際ノロに罹った後は、もうこんな汚い家には滞在出来ないと、体調不良の中フラ付きながらも片付けに明け暮れた。両親は相変わらず言動が常識外れで、始終ハラハラさせられた。特に母は、長年使わず古く汚れて傷んで壊れている物でも、自分の所有物を処分するのを許さない為、度々口論となり清掃作業の大きな障害となった。心身共に辟易し、毎晩のようにLineで姉に報告も含めて愚痴を聞いて貰った。その度に姉は「一度東京に戻って来ても良いんだよ?」と言ってくれたが、もし一度でも離れたら二度と実家に戻る気にはなれないと分かっていたので、必死に踏ん張り続けた。周囲からは、「どうせまたすぐに元のぶっ散らかりに戻るから、片付けても意味ないよ」と言われた。しかし、普段から激務で疲れているのにも関わらず、帰省の度に実家の余りの汚さに掃除に励まざるを得ない、返って休暇中に一層疲労する姉を、今回は楽にする為と自分に言い聞かせ、姉夫婦の帰省するGWを目指して片付け捲った。
また、私の滞在中は、母には調理を一切させなかった。母は料理の腕前がSPY×FAMILYのヨルさん並みで、元々帰省して実家に近付く度に胃が重く感じる私であったが、ノロ感染後はトラウマ的に母の料理は一切食べられなくなった。母の料理は、単に不味いと言うだけでなく、正しい保存方法や賞味期限の概念が全くない為、衛生的にも非常に危険であった。盛り付けも食材の組み合わせのセンスも悪く、闘病中の父の栄養管理も含めて任せられなかった。また作る量もめちゃくちゃで、どんなに注意しても毎回とんでもなく大量に作る為、一度でも調理させる訳には行かなかった。毎回鍋の幾つかや冷蔵庫の中は、食べ切れなくて忘れ去られ腐った食べ物が詰まっているカオスな状態だ。また高齢で調理中に寝てしまう事も多くなり、実際に危険で料理はさせられなかった。母はこれが非常に不満で、何度止めても自分が食べたい賞味期限当日の食品を沢山買い込んで来た。半日でも家を空けると、母が大量に不味い料理を作り、また無計画に食品を買い込む為、実家に滞在中は日帰り旅行にさえ出るのも憚られた。どうしても出掛けなくてはならない際は、予め昼食用に電子レンジで温めるだけ等の食材を用意してから行ったが、母はレンチンもお湯を注ぐだけのインスタントの味噌汁さえも失敗した。
健康と気晴らしの為に買い物がてらに一日一度は外出する事、自室として利用している部屋で動画を見る事、お風呂に入る事(北国なので5月に入っても朝夕は寒い)だけか、実家での生活の救いだった。両親と一緒にTVを見たり団らんするのは、好みも会話も合わずストレスが多過ぎて無理だった。田舎と言えど両親の家は旧町内に在り、全ての公共サービス機関や比較的大きなスーパーマーケットが、私の足なら徒歩5分圏内と言う便利な立地に在る。しかしそれさえも、既に両親には歩いて行くのが不可能だ。田舎の人あるあるで、今迄車の生活に頼り過ぎていたせいでもあるが、その車の免許も数年前に返上した。父は、最早200mも歩けない。母はスーパーまでは歩けるが、毎回大量に買い込む為に自力で帰る事が出来ない。バスの本数は少ないものの停留所は自宅の目の前で便利だが、そのバスさえ母は逃す事が多く、度々町の中で行方不明の徘徊老人となった。
もう一つの私の実家滞在中の役目として、両親に介護認定を受けさせると言う使命があった。認定審査の福祉士の自宅訪問時は、平日で家族が同伴しなければならない為、私の実家滞在中にしか機会がなかった。80歳代後半になってさえ、「ヘルパーさんを頼めるから受けといた方が良い」と我々子供達がほのめかしても、今迄両親は必要ないと突っぱねていた。傍目からは非常に危なっかしく生きていても、母は料理も掃除も洗濯も十分出来ていると信じている(不味くて大量に食材を無駄にしても、洗濯は二、三週に一度でも、掃除は年に一回でも)し、父は昭和のジジイとしてさえ一際自分では何も出来ない男で、家事の大変さを全く分かっていない。それで、自宅訪問時に本人達に必要ないとすっぽかされては困るから、私としては最大限に気を使って「まあ今は必要ないかもだけどさ、今後の為に受けて置いて損はないはずだよ」位に、出来るだけ優しく軽く勧めたつもりだった。
ところが、その直後に母の容態が急変した。母は高齢にしては食欲が旺盛な方で、その夜もデザートまで美味しそうに平らげた。夕食後に介護認定の話を持ち出したが、その時は二人共「ふーん」と言う感じで大人しく聞いていた。しかし私が自室に戻った後、母は「他人(ヘルパーさん)に家の事を任せるなんて嫌だ」と父にボヤき、汗ばむような暑い夜だったのに、やたら寒いと言い出した。風邪薬を飲ませたが、翌朝には高熱を出して起き上がる事すら出来なかった。意識が朦朧として受け答えさえ出来ず、最早薬も水すら飲めない為、救急車を呼ぶしかなかった。
その間父はと言えば、ノロの時もそうだったが何一つ役に立たず、全く余計な事として、呑気に同じ町内に住む伯母(父の姉)に電話で報告なんかしている始末だ。母はコロナに罹った可能性があるから、高齢の伯母にこちらに来られて感染されては泣き面に蜂なので、父から受話器を奪って「コロナかも知れないから絶対こっちに来ないで!」と伯母に告げた。救急車を待っている間、母の保険証、着替えやタオル、スリッパ等を急いでカバンに詰めた。そして救急車を誘導する為に外へ出たが、救急車より先に「来るな」と言った伯母が心配して車で来てしまった。しかも、救急車が駐車する予定の場所に車を止めた。「今すぐこのまま車で引き返して帰って!」と叫んでも、伯母は車を降りて家の中に入ろうとするので、最後には鬼の形相で「お母さんはコロナなので感染するから帰って!」と怒鳴って押し返し、やーっと伯母は理解して引き上げた。日本舞踊を続けているせいか、伯母は90代でも今だ足腰はしっかりしているが、やはり耳が遠いしリアクションや物事の理解は遅い。
母を乗せた救急車に同乗し、自家用車を運転出来ないと行き辛い、母がいつも通院している病院ではなく、結構ゴリ押しして実家から徒歩圏内の病院に運んで貰った。幸運にも、その地元病院に空きがあり受け入れて貰えた。病名はコロナではなく、間質性肺炎と蜂窩織炎(脚の炎症)だと診断された。前日まで咳込んでいた事もなく、その兆候は全く見られなかったので驚いたが、今にして思えば、介護認定の話を持ち出されたのが精神的に相当ショックで、その際に母の免疫が急激に落ちたのだろう。どちらにせよ、肺炎は老人の死因のトップの一つだ。医師からも、最悪の場合は命を落とすし、例え回復しても入院中に筋力が一気に衰える為、多分自力で生活出来る元の暮らしには戻れないだろうと言われた。そして、やはり介護認定を今だ受けていないのを驚かれた。
未だコロナ規制が5類に移行する前で、当時その病院は入院患者への面会を全面禁止していた。病室に運ばれるベッド上の姿を見た時も、母は意識朦朧として全く喋れず、これが生きた母を見る最後かも…と覚悟した。面会は出来なかったが、看護師さんからの指示で必要な物をせっせと病院に運んだ。姉や弟や義兄からは、「少なくとも私が滞在していた時で良かった」「良く救急車をパニックにならずに呼べたね」と言われたが、実を言うと、父母の年齢では急に具合が悪くなったり突然絶命するのは在り得るので、予め救急車を呼ぶ事を頭の中でシミュレーションしてから日本へ来た。因みに、イギリスでは二度消防車を呼んだ事がある…。
母の入院中は父と二人で暮らした訳だが、正直その時の実家の生活は凄~く穏やかでラクだった。只、果たして母が退院出来るかさえ未だ見込みが付かず、父は食べるものさえ自分では用意出来ない為、少なくとも介護認定が下りてヘルパーさんを依頼出来るまでは、私の実家滞在を最大限に延長するしかないと考えていた。
単身赴任中だった弟が春から実家近くに転任し戻って来ていたので、週末は二人で怒涛の如く実家の片付けをした。鬼の居ぬ間に洗濯とばかりに、母の絶対に不要で傷んだ物を大量に処分した。不謹慎なのは重々承知だが、きっと母は助からないと覚悟し、今の実家の状態では弔問客さえ迎えられない現実問題に焦ったからだ。その中から、母の十年間分の病院の処方薬が山のように発掘された。賞味期限が切れた高価な健康食品も、大量に出て来た。母は様々な身体の不調で長年通院しているが、発達障害が原因なのか、きちんと薬を服用する習慣が出来ない。怒った主治医から、認知症の検査を強制的に受けさせられた程だ。健康食品も、購入した時点で健康になったと勘違いしているらしい。母の無駄にした大量の処方薬を、そのまま捨てては医療に対する冒涜だし、近所の人に見付かると恥ずかしいからと、父はわざわざシートを切り離して中身を出してから一週間位掛けて処分した。
その内、姉夫婦がGWで東京から帰省した。休暇中も姉は実家でしばらく仕事をしていたが、今回は少なくとも家を片付ける必要がないと喜んでいた。幸運にも母は回復に向かっていて、直に退院の為のリハビリテーションも始めるとの事だったが、姉夫婦は県外者の為に病院に入る事さえ許されなかった(※私なんて県外どころか海外在住者だが、その時既に二ヵ月近く実家に滞在していた為に特別に許可された)。今回の帰省中に母に会えないのは残念だけど、元気な父とは会えたので帰省した意味はある、と姉は納得していた。
そんな矢先、母の入院先の病院から、未だリハビリも始まったばかりだと言うのに、「お母さんは今日明日にでも退院出来ますから早めに迎えに来て下さい」との連絡が入り、正に寝耳に水だった。我々は全員、母の予想よりずっと早い退院を喜んだと言うよりは、青ざめてパニクった。母はそれまでも勝手に病室を抜け出そうとしたり、オンライン面会でも「ここの看護師は厳し過ぎる」と文句を言っていたので(看護師さんに丸聞こえ…)、絶対に病院から愛想付かされて追い出されるのだと思ったからだ。そこで姉、弟と三人で相談し、再三病院に「母は本当に日常生活に戻れる状態なのか」を問いただし、翌日引き取りに行くしかなかった。恐らく母は、長女も帰省しているはずなのに全然会えないなんて許せない!と怒り、老人とは思えない脅威の回復力を発揮したのだろう。医師の危惧に反して筋力が衰える事もなく、勝手に自分で当日の回復祝いのレストランの予約までしていた(流石にキャンセルした)。入院時は意識があやふやだった為、自分が死に掛けて救急車で運ばれた事さえ自覚していなかった。
後で義兄から「俺は血族じゃないから、きょうだいが相談している時は口出さなかったけど」と勿体ぶられ、「ああ言う時、病院の言う事(退院)を聞き入れるべきじゃない」と何故か私だけが責められた。実際に母は問題なく回復して退院したのだし、今更言われてもしょうがないから止めてくれと頼んだが、義兄は言い続けるもんだから、遂には姉が怒ってくれた。不安とストレスで憔悴し切っている今、何故無意味な追い打ちを更に掛けられなきゃいけないんだ…。「おにいちゃん本人もジジイになって融通が利かなくなっちゃったんだよ。悪気はないから許しておくれ」と、姉から謝られた。その後しばらくして、姉が両親にヘルパーの必要性を極力穏やかに説明した。今まで沢山の税金を払って来たのだから、こんな有難いプロのサービスを受けても何ら恥じる事はないと説いたが、母は他人に頼るのは情けないと言って泣き、再び免疫力が急降下して病気になるのではと私は気を揉んだ。
姉夫婦が東京に戻ってからも、私は十日程実家に居続けたが、これがまた非常に長く感じられるキツイ期間だった。母は体調不良で朝遅くまで起きて来ない事がある為、父でも朝御飯の支度が出来るよう、パンを注文して自分で用意出来るように教え込んだ。母が起きて来ないと、今迄は自分でお茶さえ入れない怠惰な父だったが、これは何とかなった。私が去った後は再び母が家事をしなくては行けない為、母に料理のリハビリをさせる必要があったが、これは私の胃が全く受け付けなかった。しかし母は、自分の料理を私にとって「懐かしい母の味」と頑なに信じ(実際にはトラウマの味だが)、何としてでも私に食べさせようとした為、胃がキリキリと傷んで益々食欲を失なった。本当に実家を出る直前まで、母の料理を食べない限り私は東京には帰させて貰えない、例え食べても胃痛で帰れないのではと不安に苦しんだ。そんな胃の状態なのに、母は私が去る前夜に寿司を注文しようとするもんだから、無理矢理受話器を奪ってお断りした。現金な物で、実家を発つや否や胃痛は嘘のように消え食欲は復活した。
三か月近くの滞在で、確かに実家は見違えるように綺麗になり、その他にも不具合を色々と解決・処理したので、父を始め家族や親族一同から称賛・感謝された。しかし本当は、父からは庭仕事、伯母からは自分の家の仕事も手伝って欲しかったと言われた。母だけは、自分の持ち物を大量に処分され、料理を阻止され自分の家事能力を全面否定された訳だから、明らかに不服で大して有難くも思っていないようだった。それどころか、私が夫を置いて自分一人だけ長期間帰国した事を何度も母から非難され、遂には英国に早く帰れとまで言われ、夫婦で相談し苦渋の決断をしてまで親を心配してやって来た気持ちを踏みにじられた。母のこう言う自分では思いやりと信じている無神経さは生涯絶対に直る見込みはないのだし、このままでは母とはウンザリな思い出しか残らないから、私が我慢せねばと何度自分に言い聞かせても、こちらだって発達障害なので忍耐の限界はたかが知れていて無理だった。
労働がきつかった訳ではなく、あくまで両親の元からの性格や行動がきつかった。認知症とか寝たきりの介護に比べれば遥かにラクなはずなのに、精神崩壊の危機を感じた。両親にしてみれば、自分達は問題なく普通に暮らしていると信じているのに、始終私から小言や注意を言われるのは嬉しくなかったはずだ。今回帰国して親の面倒を見て、周囲からは「やれる事はやり遂げた達成感があるのでは」とも言われるが、実際に未だ親は生きていて不便な暮しを続けているのだから、思い残す事はないなどとは決して思えない。
友達も、一斉に年老いた親や義両親の世話・介護に関わる年代になった。その中の一人からは「誰もが自分の親(の世話)が一番大変だと思っている」と言われたが、今は確かにそうかも知れないと思う。親は身内の前では遠慮なく素を出すし、こちらも愛情や恩義や情けがある為に絶対見捨てられない。そして、自分の親だから、どんどん衰えて益々手が掛かるようになって行く様子が悲しくない訳がない。夫の母も相当クセと言うか拘りの強い性格で、手術後に世話でしばらく滞在した時は、ストレスで胃から血を吐くような思いをした。その義母も、足腰手が不自由なだけでなく、脳が新しい情報を受け入れられずに度々パニックを起こす為、夫+義妹の週一の訪問だけでは補助が追い付かない事も多くなった。そんな義母を今残して、夫は数週間でさえ私と一緒に日本に行く事は出来ない。
現代社会の変化に付いて行けず、身体機能的には非常に弱く、正直いつ突然死んでも可笑しくない老人達なのに、その破壊力たるや何と強力なのだろう。彼等を見ていると、歳を取るのは本当に怖いと痛感するが、誰でもいつかは必ず老いるのだし、そう言う私もすぐに老人になる。ただ、親にはいつまでも元気で長生きして欲しいとは願うものの、体の不具合を沢山抱えてまで、自分はむやみに長生きはしたくないもんだとつくづく思う。